第19回 箏曲組歌演奏会 〜流派をこえて組歌の魅力を探る〜 WEB無料公開
箏組歌は、現在の箏曲のもとになる手法など多くの重要な要素を持ち、シンプルな音型に表される音楽は非常に芸術性に富んでいます。その歌詞は文学性の高い美しい言葉で様々な人間性を表現しており、現代にも魅力的にアピールします。
箏曲組歌会は、山田流、生田流の流派を越え、組歌の魅力を探る目的で組歌 に情熱を傾ける演奏家達が相集い平成13年に発足いたしました。同年、第1回目の演奏会が東京・紀尾井小ホールにて開催され、その後18回の演奏会開催を重ねてまいりました。長年に渡る活動を通じて多くの方々に箏曲組歌への魅力を感じてもらえるようになり、関心も深まってまいりました。さらに若手の演奏者が育ってまいりました。
19回目の演奏会は2020年3月8日紀尾井小ホールにて開催予定でしたが、コロナウィルスの蔓延により延期となりました。このたび改めて2021年3月7日同ホールにて無観客にて演奏収録を行い、Youtube上での無料公開形式での演奏会となりました。
これを機に一人でも多くの方々に箏組歌について知っていただけるよう会員一同心より願っております。皆様の暖かいご理解、ご支援頂けますようお願い申し上げます。
中組《橋姫 (はしひめ)》隅山検校こん一作曲か
■演奏
山下名緒野 小林名与郁
■歌詞
1、水の上のうたかた、露にやどるいなづま、あるかなきかの世の中を、宇治川の橋姫。
2、身の憂きときはたちよらむ、かげとたのみし椎が本、むなしき里となりにけり、契りのほどぞ悲しき。
3、峰に生ふる早蕨(さわらび)、昔の花のおもかげ、忘れがたみにつみおきて、主なきやどににおくらむ。
4、さきの世のちぎりか、この世のうちのなさけか、むなしきあとと宇治の里、たへずここに宿り木。
5、ひとかたならぬものおもひ、よるべさだめぬ浮舟、仇(あだ)なる名のみたちばなの、小島が崎にこがるる。
6、小野の花の秋のころ、ねやのつまの紅梅、それかとまごふ花ぞの、昔の人ぞ恋しき。
■解説
八橋検校の弟子・隅山検校こん一作曲と伝えられますが、『箏曲大意抄』では中組とし、「古作は不知 手付絶たるを倉橋の時代三橋補」とあり、一度途絶えたのを八橋検校の孫弟子・生田検校のさらに弟子にあたる倉橋検校順正一(?~1724)の時代に、その弟子の三橋検校弥之一(1693?~1760)が復曲したとされています。1681年に成立した『琴のしやうか』や1695年成立の『琴曲抄』には「新組」とあり、生田流各派では「奥組」に分類されていますが、山田流では『箏曲大意抄』に記載の通りに「中組」としています。
曲は八橋検校以来の定型通り、平調子、6歌構成で、各歌64拍子という形式に倣っていますし、各歌は全てカケ爪で始まります。つまり、奇数の歌は全て「十ガケ」、第2・6歌は「巾ガケ」、第4歌が「斗ガケ」で出て、第2・5歌以外は定型終止を用いています。
歌詞は、『源氏物語』最後の宇治十帖の「橋姫」「椎本」「早蕨」「宿木」「浮舟」「手習」の各巻から順に一歌ずつ採っていて、素材が統一されています。
宇治で俗聖(ぞくひじり)として念仏三昧に明け暮れていた故光源氏の異母弟・八の宮(桐壺帝の第八皇子で、母は大臣家出身の女御。光源氏のみならず、朱雀帝・蛍兵部卿宮らとも異母弟で、宇治の大君・中君・浮舟の父)を、薫君は求道の師と仰いで宇治に通うようになり、八の宮の姫君たちに心を動かします。
第1歌は、その八の宮の没後「水の泡や、露に宿る小さい稲妻虫のように儚い世の中に、宇治の姫たちが侘びしく住んでいる」と歌っています。本来「橋姫」は橋を守る女神のことですが、ここでは、八の宮の姫君たちを指しています。
第2歌は、宇治の姉妹を慰めに訪れた薫君が、亡き八の宮の部屋に入って詠んだ歌「立寄らむ蔭と頼みし椎が本 むなしき床になりにけるかな」に拠っています。薫は、自分が不義の子であると知って出家を志し、その時には八の宮を師と仰ぐ約束を交わしていたのですが、宮の死でそれも空しくなった、と嘆く様を歌っています。
第3歌は、最後まで薫の愛を受け入れないままの大君をも亡くして悲嘆に暮れる中君に、昔は花のように美しかった大君の忘れ形見として、峰に生えている早蕨を、昔の通りに山寺の阿闇梨が筐(かたみ)に摘みおいて、贈ってきたことを題材にしています。
第4歌は、その後中君が、薫君の後見で京の匂宮(今上帝と明石中宮との子)に嫁いだ後も、前世からの約束か、現世の恩愛か、この宇治の里によく宿泊したものだ、と歌っています。
第5歌は、大君と中君の異母妹である浮舟(八の宮の三人娘の内、大君と中君は正妻の子で、宮家の姫として扱われたが、浮舟は正妻の死後、その姪にあたる女房・中将の君との間に生まれたので、八の宮には娘だと認められていない)が、薫君と匂宮の二人の愛に挟まれて悩み、寄る辺もなく浮き名だけが立ち、橘の小島が崎の辺(ほと)りに身を焦がしている様を歌っています。今では、宇治川の「塔の島」と「橘の小島」の二つの中洲が連なっていて、併せて「中の島」とも言われています。
第6歌は、浮世の柵(しがらみ)を忘れようと、勤行(ごんぎょう)と手習いに明け暮れる浮舟が、「小野の里の秋の花や、寝所の端に匂っている紅梅を眺めると、昔のように花園に居るようで、薫君や匂宮のことが懐しく偲ばれる」と歌っています。
奥組《思川 (おもいがわ)》北島検校城春または生田検校幾一 作曲
YouTube: 「思川」(奥組)北島検校または生田検校 作曲
■演奏
鳥居名美野 佐々木千香能 橋本芳子 伊藤松超
■歌詞
1、逢ふ瀬徒(あだ)なる思川、岩間に淀む水茎の、掻き流すにも袖濡れて、干す日も何時と白波。
2、面影のつくづくと、忘れもやらで思ひ寝の、夢だに見えで明けぬれば、逢はでも鶏の音(ね)ぞ辛き。
3、何時の間にかは書き絶えて、隔つる仲となりにけむ、見し玉章(たまずさ)の文字が関と、名を聞くだにも恨めし。
4、情(つれ)なくも行く人を、留め形見の唐衣、立つよりいとど我が袖は、露にぞ萎れ萎るる。
5、恋ひ佗びてただ一人、伏屋の床に夜もすがら、落つる涙は音無の、滝とや流れ出づらむ。
6、なかなかに辛からば、ただ一筋に辛からで、情けの混じる偽りと、思へば深き恨みかな。
■解説
「思ひ川」とも書きます。八橋検校の弟子の北島検校城春(?~1690)、またはその弟子の生田検校幾一(1656~1715)の作曲とされ、奥組に分類されています。生田説の可能性に言及している『撫箏雅譜大成抄』(1812年)では、《羽衣》《若葉》《思川》を「新組秘事」として「うら三曲といへり」としています。
調弦は、平調子の三・八・巾を半音下げ、四・九を全音上げた「本雲井調子」ですが、第一弦を大5弦の乙にした場合は「下千鳥本雲井調子」と言います。奇数歌が「十ガケ」、第2歌が八ガケ、第4歌が為ガケ、第6歌がワリ爪で出ます。各歌は、第3歌のみ類型旋律で終止していて、第1歌はその変型で、他はそれぞれ異なる終止となっています。楽曲の最後は、裏連から合ワセ爪の定型で終止しています。
全歌が、和歌を原拠とした恋の歌ですが、恋の喜びよりも、やるせない物思いに駆られる恋や、別離の辛さに涙する悲しい恋を歌っています。
第1歌は、太宰府市を流れる思川(梁川の異称)の名に掛けて詠んだ『新勅選集』に掲載の皇嘉院別当の歌を引いて、瀬・川・淀・水・流・濡・波などの縁語を繋ぎながら、「逢瀬も儘ならず、思川の岩間に水茎が淀むように、口に出しかねる秘めた思いを手紙に書き流すにつけても、涙に濡れた袖の乾く日が何時になることか」と歌っています。「水茎」は「瑞々しい茎」の意で、筆の美称ともなり、手紙の意にも、さらには、筆跡の意にも用いられます。
第2歌は、『千載集』の寂蓮法師の歌を踏まえて「恋人の面影が忘れられない。夢にさえ見られずに夜が明けてしまうから、逢えずとも夜明けを告げる鶏は恨めしい」と歌っています。
第3歌は、『新続古今集』の読人不知の歌を本歌として「いつの間に手紙も絶えて音信不通になったのか。門司の関所ではないが、手紙の文字が原因なのか。その名前を聞くだけでも恨めしい」と失恋の痛手を歌っています。
第4歌は、『拾遺集』の読人不知の歌を踏まえて「薄情にも別れていく人を引き留められず、残された抜け殻の唐衣を切り裂く様に去って行き、私の袖はいっそう涙に萎れる」と歌います。「唐衣」は中国風の衣服で、空(から)に掛けています。
第5歌は、『詞花集』にある中納言(藤原)俊忠の歌に拠って、「恋い佗びて、ただ独り粗末な家の床に寝て、一晩中忍び泣きをしていると、涙が音無の滝のように流れるだろう」と歌っています。
「音無の滝」は、京都大原の来迎院の東にある滝で、水が平滑な岩面に落ちるので音がしません。ここでは、声を立てずに泣くことを掛けています。
第6歌は、『嘉元百首』にある藤原為相の歌や、『薄雪物語』にある引歌等を踏まえて「どうせ辛いのなら、ただ一筋に薄情である方がましで、なまじ愛情の混った偽りの辛さかと思うと、却って余計に恨めしさが深まる」と歌っています。
裏組《薄衣 (うすごろも)》 八橋検校城談作曲
■演奏
設楽千聡代 小間夕起子 塚田季染
■歌詞
1、数ならぬ身にはただ 思ひもなくてあれかし 人並み並みの薄衣 袖の涙ぞ悲しき。
2、憧れて思ひ寝の 枕に交はす面影 それかとて語らむと 思へば夢は覚めけり。
3、白雪の深雪の 積もる年は経(ふ)るとも 飽くまじや諸共に 寝乱れ髪の顔ばせ。
4、引く人はそれぞれ 数多あれども妻琴の もとの心変はらずば 琴柱に落ちよ秋風。
5、柏木の衛門の 鞠をとんと蹴たれば 鞠は枝に止まりければ 梅ははらりほろりと。
6、さりとては情(つれ)なや 引かふる君が袂の 生憎(あやにく)に靡かぬは 手飼ひの虎の引き綱ン。
■解説
【解説】
近世箏曲の始祖・八橋検校城談(1614~85)が作曲した「十三組」の第8曲で、裏組に分類されています。曲名は第1歌に拠りますが、かつては第5歌や第6歌に拠る《柏木の曲》や《手飼の曲》の別称でも呼ばれていました。第1・5歌が寺院歌謡『寛文本箏譜』に見られる他は、先行歌謡との関連性が薄く、八橋検校の独自性が窺われます。また、第5・6歌は、共に『源氏物語』「若菜」の巻から引用されていて、内容的に連続している点で、初期の組歌としては珍しい例と言えます。
曲調は、箏組歌の通例通り、平調子で6歌構成。カケ爪と類型旋律を多用しています。
第1歌は八ガケ、第2歌以下は十・斗・巾・斗のカケ爪で始まり、第6歌はワリ爪で出ますが、八橋十三組の内、曲頭が「八ガケ」で始まるのは、この曲と《桐壺》《四季曲》だけです。各歌の終止旋律は、第1歌が類型と異なり、第5歌が多少変形されている他は、類型旋律です。
第1歌は、『源氏物語』「東屋」の巻や『河海抄』にある歌や『隆達小歌』などを踏まえて「物の数でもない我が身に、物思いなど不要だが、それでも人並に恋もする自分は、粗末な薄衣を着ているものの、その薄さよりもっと薄情なあの人への思いで、涙に袖を濡らしている」と、思い通りにならない恋に涙する様子を歌っています。
第2歌は、『新拾遺集』皇太后宮大夫俊成女の歌を踏まえて「思い焦れて寝た夜は、夢の中で枕を交わせるが、面影に語りかけると、夢は儚く覚めてしまう」と儚い恋を歎いています。
第3歌は、『新千載集』前中納言匡房の歌を下敷きに「齢を重ねても飽くことがないように、心通う人と寝乱れ髪の顔を見合わせても決して飽きない」と、共白髪の愛を歌っています。
第4歌は、『新千載集』法印実顕の歌や、『続千載集』藤原利行の歌などを引用して、弓を箏に替えて「箏を弾く人が沢山いるように、あなたを誘う人も沢山いるだろうが、初心が変わらないなら、秋風が琴柱に落ちて変わりのない音を奏でてくれるように、心変わりしないでほしい」と歌っています。「妻琴」は箏の異称の「爪琴」に妻を掛けています。
第5歌は、『源氏物語』「若菜上」の巻に拠ります。光源氏の六条院の屋敷では、源氏と葵上との子の夕霧が、従兄弟の柏木や兵部卿達と催していた蹴鞠の場面を引き、桜を梅に替えて「柏木の衛門が鞠をとんと蹴ったら梅の枝にひっかかり、花がはらりほろりと散りかった」と歌っています。名古屋に伝承される「真の手」という変奏では、前半の二句を「皐(さつき)も末に楢の葉の その柏木の鞠の曲」と替えて歌いますが、他流では歌いません。
第6歌は、第5歌に続く内容で、蹴鞠が興に乗った頃、女三宮[朱雀帝の皇女で、源氏に降嫁]の部屋から出てきた飼猫の長い引綱が引っかかって御簾が巻き上ってしまい、かねてから宮に思いを寄せていた柏木がその姿を見てしまい、慕情をいっそう募らせた様を歌っています。
新組歌《秋風曲 (あきかぜのきょく)》光崎検校浪の一作曲
■演奏
山登松和 上原真佐輝 亀山香能
■歌詞
〔前弾六段〕
1、求むれど得難きは、色になむありける、さりとては楊家(ようか)の女(め)こそ、妙なる者ぞかし。
2、雲の鬢(びんずら)花の顔、実(げ)に海棠の眠りとや、君王(おおきみ)の離れもやらで、眺め明かしぬ。
3、翠(みどり)の華(はな)の行きつ戻りつ、如何にせむ、今日九重に引き替へて、旅寝の空の秋風。
4、霓裳羽衣(げいしょううい)の仙楽も、馬嵬(ばかい)の夕べに、蹄(ひずめ)の塵(ちり)を吹く、風の音のみ残る悲しさ。
5、西の宮南の苑(その)は、秋草の露繁く、落つる木の葉の階(きざはし)に、積もれど誰か払はむ。
6、鴛鴦(えんのう)の瓦は、霜の花匂ふらし、翡翠(ひすい)の衾(ふすま)独り着て、などか夢を結ばむ。
■解説
京都で活躍していた光崎検校(?~1853迄は生存確実)が作曲した新しい箏組歌です。作詞者は高向山人ですが、『越前人物史』に拠れば、それは、村名に因む越前(現福井県)坂井郡高椋村の代官で儒学者の蒔田雁門(?~1850)の筆号です。
歌詞は白楽天の『長恨歌』を翻案した内容で、古典の箏組歌に倣って六歌構成ですが、二歌ずつ序破急に対応させて、序の1・2歌では、唐の玄宗皇帝(685~762)に召された楊家の娘(719~56)が貴妃となって帝の寵愛を一身に受け、栄耀栄華を極めたことを歌い、破の3・4歌では、安禄山の乱(安史の乱)で都を追われた両人が貴妃の郷里に逃れて、草枕の旅寝の身に一転し、馬嵬の地で貴妃を殺させざるを得なくなったことを歌い、急の5・6歌では、貴妃を失った玄宗が荒れた離宮の庭を見ては涙し、翡翠の羽布団を独り淋しく着て嘆き悲しむ様を歌っています。安禄山はイラン系民族の出身で、一説にはアレクサンドロスを漢字にしたとも言われ、6種の言語を解したそうです。巧みに楊貴妃に取入って玄宗にも目を掛けられ、20万もの兵を配下に持つ北方警護の節度使(中国古代の官職名で、軍を指揮する皇帝の使者)長官に出世しましたが、楊貴妃の又従兄弟で宰相に出世していた楊国忠と反目し、仲間の史思明と謀って乱を起こしました。
この曲が発表された当時の生田流箏曲は大変盛んでしたが、組歌と段物以外の創作は無く、それもごく僅かで、箏曲のほとんどは、次々と生まれてくる地歌に箏の手を付けて楽しむ脇役的存在に甘んじていました。そこで光崎検校は段物と組歌を結合させるというアイディアで、八橋検校以来の純箏曲を蘇らせて《秋風の曲》を創り出しました。しかも、随所に情景を暗示する象徴的な手を織り込み、音域の広い凝った歌の節付けで、非劇的な出来事を見事に描き出した完成度の高い作品となっています。
〔前弾〕は《六段の調》と同拍数に作られていますので、同時演奏も可能です。但し、歌が始まってからの部分は、組歌とは言え、各歌の拍数は古典組歌のように揃っていません。また、この曲の調弦は、琵琶湖の竹生島に百日参籠して得たとも、毘沙門天のお告げだったとも伝えられる独自の「秋風調子」です。これは当時既にあった平調子の六斗弦を半音上げた「六上り調子(山田流でいう中空調子)」の第二弦からの並びを一本隣の第三弦からの並びに移動させて、残る第二弦を第一弦の乙に下げた調弦です。この第一・二弦の乙音は、深い哀惜の念を漂わせる曲に効果を出しています。
いずれにしても、この曲は吉沢検校の「古今組」と共に、箏組歌の歴史の中で極めて重要な位置を占める曲です。本日ここで、古典の箏組歌と共に取り上げられることは、極めて意義深く思われます。
【曲目解説文 久保田敏子】
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