イントロデューシング・トゥ・デスマーチ
一日で一気に曲を作ると死線が見える。ただDTMの作曲家の激務というのはこれが毎日続くような状態のことなのだろう。恐ろしい。あな恐ろしい。
一日で一気に曲を作ると死線が見える。ただDTMの作曲家の激務というのはこれが毎日続くような状態のことなのだろう。恐ろしい。あな恐ろしい。
1996を探し求めて1996以外が大変充実する。
ブラジル音楽を求めて行くとディスクユニオンがレゲエ祭りである。なんなんだ。なんなんなんだ。そんなにぶっといダブをかけて俺を挑発しているのか。
しかしボサノバ以外のブラジル音楽を探すのはありそうでなかなかなくてむつかしい。無論金を積めば手に入るのだがそう簡単に金がポンポンでるわけでもなし。
カエターノ様は枚数が多すぎるのでカエターノ様だけでディスクガイドが欲しいぐらいだ。ベストとドミンゴの次に進めない。粋な男、粋な男。
ショーロは入手し辛くMPB衰退以降は混沌で情報整理が必要。ブラジルに足を突っ込むと終わりが見えない。ジャマイカはそんな混沌ではなく順序だって見えるのに。やはり国土の違いなのだろうか。
楽器を触っていると世界の深淵を覗いているような気分になれる。
DTMはどうだろう。別の楽しさや奥深さはあるのだけれど、僕はその奥に得体のしれないものを触るところまで行ったことがない。音楽の陰の部分。デジタルのオーディオデータに深淵はあるのか。64kbpsのmp3のビットクラッシュに深淵はあるかもしれない。
ウォーリーを探してしまう、人間の悲しい性。誰もがその苦しみを背負っている。君は一人じゃない。
とりまっていつから言うようになったんだろう。
盲信、という二文字が浮かび上がってきた。
色々と不満を抱くこともあるのだが、その中でどうにも納得のいかない、理不尽な点を考えていくとそこに何かに対する絶対的信用が存在しているのだ。
世界規模の話で言えば宗教という奴だろうが、僕が直面したのはもっと小さい個人規模の、個人の心の中のちょっとした価値観へのものだ。
無神論者が大抵ダーウィンの進化論を信じるように、無宗教の日本人が科学を信じる。それも捉えようによっては宗教と言えるだろう。「我々だって科学という宗教を信じているじゃないか」という漫画や映画に出てくるセリフだ(カフェインというドラッグを、の間違いかもしれないが)。
ある人はアカデミズム、権威主義に絶対の信頼を置いて、ときおり厄介に振り回す。
ある人はいい大学を出ていい会社に入っていい嫁さんを貰って幸せな家庭を築く、昭和的幸せ(もしくは団塊世代が子供に望んだ幸せ)こそが至高であると、口には出さず承前のように他人に語りかける。
社会的地位、金銭、目に見え易いものを信ずる人もいる。それらを頑なに否定し、そうでないものに幸せが宿るかのように語る人もいる。
さらに細かいことを言えば音楽性にしてもそうだ。これもまたアカデミズムが絡んでくるのだが、やはり何かしらの「こういったものが高貴な音楽で、これは下賤な音楽だ」という偏見として現れる。個人的な好みとしての良し悪しの判断であればそこに嫌悪感は抱かないが、「譜面も読めず楽器もヘタクソな連中の」だとか「テンションとか転調とか頭をもっていかれた奴」だとか「打ち込みで有機的なグルーヴがない」だとかそういったバイアスを感じた物言いは途端に気持ちの良くないものになる。
些細な信条、イデオロギー?そこに何かしらの思考停止を感じた時、抑え難い苛立ちや怒りが湧き起こる。今まで自分の感じていた負の感情の原因のいくらかを占めるものとして、そういった存在に気付いた。
盲信というものに気をつけよう。自戒を込めて言う。
死相が出ている。自律思考を停止し、死んだ魚の目で呂布子ちゃん5巻と珍遊記新装版1巻を購入。
ユーモアが足りない。胆汁だ。